Light    株式会社 日本美術ライト商会   【沿革】
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明治二十五年  11月3日特許紙面光沢工藤式ライト加工、球ゼラチン製造加工法の考案者であり、現株式会社日本美術ライト商会の基礎を樹立した工藤久太郎は工藤佐吉の長男として横浜に出生した。
明治四十一年  16才のとき、横浜上田コロタイプ株式会社に見習工員として入社した。勤続7年に至る間、コロタイプ印刷、製版技術の改善に意を用い、同社の製品の市場価値を絶対なものにならしめた事により、優秀工員として表彰並びに金一封を受けた。その間においてコロタイプの製版の際、材料にゼラチンを塗布する事よりヒントを得、これがライト加工の基本となったのである。
大正 三 年  其の後ライト加工については、絶えず研究を重ね、その結果ほぼ満足しうる製品が得られたが、上田コロタイプは印刷業であったので普及をはかる事が出来ず、更に研究とその大いなる普及のため、独力で事業を興すべく、会社との了解の下、23才で独立し、ただちに東京市渋谷区に小規模な工場を建設し、工員2・3名と共になかば研究と実製品の製造(主として三越他各デパートの呉服の房下のライト加工)に着手した。創立大正3年3月20日。
大正 七 年  隣家の菓子屋包装室よりの出火にあい工場全焼、やむなく事業を閉鎖し、横浜の両親の下に帰り、高度の光沢化工の研究に没頭する。
大正 九 年  横浜での研究、実験中友人である越前屋呉服店主がこれを見学し、その事業の有望さを認め、1万円の出資をうけた。これを元手として、東京浅草町に軒続きの長屋を購入(26坪)4.5畳の住まいの他は作業場乾燥室に改造し、工員10名位で営業を開始した。
大正 十 年  開業後1年経過、業績も向上しかけた時、腰部関節炎で順天堂病院に入院した。加療中は妻、はるが工場に入り工員を指導しながら得意先の維持拡張につとめた。当時は須田友商店、壷田商店等日本橋所在の呉服店用のペーパーを主としライト加工したものであった。
大正 十一 年  業績は順調に進み、呉服ペーパー房下等呉服関係の品はライト加工が常識となり、浅草の工場もまもなく手狭に感ずるようになった。当時明治製糖の会計課長であった飯塚氏より1万円の資金の融通を受けることが出来たので浅草の工場を売却し、豊島区駒込265に250坪の工場を購入、工員を募集し160名で新たに出発した。
大正 十二 年  関東大震災に遭遇したが、保有ガラス(ライト加工用に使用する)25,000枚のうち15,000枚程を破損した程度の被害で済み、営業は支障なく続行できた。ライト加工は呉服関係ペーパーのみに止まらずチンタオ方面各地方の風景絵はがきに加工するようになり、また映画俳優のブロマイドにも普通の写真のように見えるところから、ライト加工をすることが取り入れられ、各方面より大量に注文を受けるようになった。駒込坂下町にあって、講談社の雑誌口絵のライト加工を多量に加工した。
昭和二年  これまでのライト加工は工藤久太郎の発案になる独特のものであるため、特許庁に「紙面光沢工藤式ライトプレス」その原料となる「球ゼラチン製造加工法」「セロハン貼」の3件の特許を申請した。
昭和七年  特許庁より公報の公示があり、専売特許第102605号及び、第72516号の特許が下りた。以後はこの加工法による製品は一手に製造するようになったため、事業は急激に膨張を遂げた。
昭和十五年  駒込の工場は事業拡大の都度拡張したものであったため、使用上不便の点が多かった事、また得意先の分布上の関係より、小石川区氷川下町4番地に335坪の工場を新設し移転を完了した。
 その後大東亜戦争が開始され平和産業の企画整備が行われたが、当企業が特許を保有していたためその対象とならず宮内省・陸海軍の御用を受け各種写真印刷(コロタイプ)のライト加工に従事した。
昭和十九年  戦争が熾烈になったためライト加工を廃業し、旋盤台を購入し東京航空計器株式会社の下請工場として再出発、航空機部品の製造に従事した。
昭和二十年  戦災により全焼したため、千葉県佐倉町に疎開した。
昭和二十二年  まもなく世上も安定したので上京、工場再開を決意し、武蔵野市吉祥寺616サンニュースホートス社の工場の一部262坪を借用、工員20名と共に工藤研究所として再開した。ライト加工は従来取り扱ったものに限らず、戦後の風潮を反映し、カタログ・パンフレット・化粧品のレッテル・包装にまで普及した。
昭和二十六年  交通の便、工場内部の使用状況から、文京区白山4-9-6の現地に250坪の工場を新築、移転を完了した。工場の文京区移転を契機にこれ迄の工藤研究所を発展的に解消し、合資会社日本美術ライト商会(資本金100万円)を設立した。
昭和二十七年  社長工藤久太郎病を得10月6日没す。
 長男久一郎直ちに父業を継ぎライト加工の他、ビニール引き、ビニール貼り・セルロイド貼り等についての新加工法を考案した。当時主たる取引先は光文社・凸版印刷・新潮社・小学館・学研・キングレコード・三共製薬・日本書院・博文堂・岡田台紙店・山口青旭堂・よい子の友社等であり、雑誌の表紙のビニール引き、ライト加工、ビニール貼りを行った。
 カタログ・パンフレットのライト加工、レッテル・包装のセル貼り等、紙面印刷物の防水、耐熱、耐薬品性強度を要求される方面に広く活用されだした。
昭和二十九年  カッパブックス誕生。図書カバーとして出版界に初めて高級光沢が用いられる。(ビニール貼り及びライトプレス加工)
昭和三十年  2月新たなる紙面光沢加工法を考案、特許庁に出願する。カッパブックス(光文社刊)のあいつぐベストセラーに伴ない、加工上手間のかかるライト加工から能率のよい近代的ビニール貼り加工に変更、従来のプレス台を大型化する。
昭和三十二年  凸版印刷株式会社の協力作業として行った外国商社宣伝用のハワイ・タヲウ島の風景絵葉書のライト加工に対し、その効果大なる事により感謝状を受けた。昭和30年8月出願せる紙面光沢加工法の特許が公報に公示される。
 10月今後の発展、それに伴なう企業の合理化の為、これ迄の合資会社組織を改組し、株式会社日本美術ライト商会(資本金100万円)として発足。
昭和三十四年  プレス機を更に増設、同時に接着剤塗装機及び自動ビニール貼り機を設備、作業内容の充実を計る。
昭和三十五年  さらにプレス機1台を増設、新しいビニール貼り加工法及び特殊加工法(目押し加工・艶消しビニール貼り加工)の研究を完成する。
昭和三十六年  5月工藤久一郎社長、東京ビニール加工紙協同組合副理事長に推される。
 12月荒川区西日暮里6-30-2に第二工場(62坪)を新設、プレス機1台、自動ロールプレス1台を設備する。
昭和三十七年  2月資本金を200万円に増資する。
 10月飯田橋労働基準監督署より優良事業所として表彰される。
昭和三十九年  7月資本金を600万円に増資する。同時に荒川の第二工場へポリプロピレンフィルム自動貼機械を設置する。
 9月労働基準局より局長賞を受ける。東京商工会議所会員に指名される。会社創立50年を迎える。
昭和四十一年  1月工藤久一郎社長、中小企業界への貢献度を認められ、全国中小企業団体中央会名誉総裁賞を受ける。
 11月株式会社光文社発行のカッパブックス(当社にてカバーのライトプレス加工)創刊以来5千万部を突破。
昭和四十二年  2月荒川第二工場を鉄筋三階建720uに新築し工場の拡張を計る。同時に社員寮、社員食堂、浴場などの厚生設備の充実を計る。荒川消防署より工場の火災予防による協力感謝状を受ける。
昭和四十三年  4月工藤久一郎社長、東京ビニール加工紙協同組合理事長に推される。7月自動エンドレス艶出しプレス1基新設。
昭和四十五年  4月工藤久一郎社長、東京ビニール加工紙協同組合理事長に再選される。
昭和四十六年  2月株式会社徳間書店発行の「心」「道」(当社にてカバーのライトプレス加工)両書共100万部を突破し、感謝状を受ける。
 取締役会長工藤はる病のため8月20日没す。
昭和四十七年  4月工藤久一郎社長、東京ビニール加工紙協同組合理事長三期留任。
 12月株式会社光文社発行のカッパブックス(当社にてカバーのライトプレス加工)が創刊以来1億冊を突破。同月自動給紙機付自動貼機械設置。同月印刷及び金・銀・色箔による模様を有する台紙の特許が認可される。
昭和四十八年  3月東京消防庁より火災予防活動の協力による総監功労賞を受ける。
昭和四十九年  5月工藤久一郎社長、荒川消防署災害予防協会理事に推される。
昭和五十一年  3月田端工場新設380u
 5月工藤久一郎社長、東京都光沢化工紙協同組合(東京ビニール協組名称改称)5期目の理事長に推される。全日本光沢化工紙協同組合連合会会長兼務。
昭和五十五年  7月群馬県草津町中沢ヴィレッジヴィラUに保養所を開設し、厚生設備の充実を計る。
昭和五十六年  5月工藤久一郎社長、東京都地場産業対策推進評議員に推される。
昭和五十七年  5月工藤久一郎社長、東京都光沢化工紙協同組合8期目の理事長に推される。
 10月高速ラミネート機械開発導入する。
昭和五十八年  4月センサーによる自動スリッター開発導入。
 5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(5年連続)
昭和五十九年  3月会社創立70周年を迎え田端工場を鉄筋3階建600u無公害のモデル工場に新設を計る。
 5月工藤久一郎社長、東京都光沢化工紙協同組合理事長に9期再選される。
 9月新田端工場完成に伴い全自動高速ラミネート機械開発導入。
昭和六十年  4月工藤久一郎社長、社団法人日本印刷産業連合会発起人及び常任理事に推される。
昭和六十一年  5月工藤久一郎社長、東京都光沢化工紙協同組合理事長10期及び全日本光沢化工紙協同組合連合会会長6期再選される。
 6月田端工場に隣接の新工場用地165u取得。
 8月荒川消防署災害予防協会副会長に推される。
昭和六十二年  9月工藤久一郎社長、社団法人日本印刷産業連合会より印刷功労賞を受ける。
 10月足立労働基準監督署より労働衛生管理活動優秀につき表彰される。
昭和六十三年  3月文京区長より中小企業景況調査貢献につき感謝状を受ける。
 5月東レ株式会社と技術提携により超光沢ラミネート機(NEWライトプレス加工機)を開発設置。
 5月工藤久一郎社長、全日本光沢化工紙協同組合連合会会長7期目就任。
 5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(10年連続2回目)
平成元年  9月全日本光沢化工紙協同組合連合会全国大会が帝国ホテルで開催され、工藤久一郎社長が大会会長を務める。
平成二年  6月設備改善及び労働環境改善のため新型コンピューター制御ボイラーの導入及び荒川工場全館エアーコンディショナー設置。
 7月全自動コンピュータ制御大型ラミネーター1台増設。
 9月工藤久一郎社長、日本光沢化工紙協同組合連合会より特別功労者顕彰を受ける。
 10月小ロット・小サイズ対応全自動コンピュータ制御小型ラミネーター1台増設。
 11月工藤久一郎社長、秋の叙勲において藍綬褒章を受章。
平成三年  5月工藤久一郎社長、全日本光沢化工紙協同組合連合会名誉会長に推される。
平成五年  5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(15年連続3回目)
平成六年  3月会社創立80周年を迎える。
平成七年  3月東京消防庁より消防総監賞を受ける。
 4月全自動無溶剤ラミネーター1台増設。
平成九年  11月工藤久一郎社長、荒川区より防災功労者賞を受ける。
平成十年  2月文京区産業連合会より振興功労賞を受ける。
 5月工藤久一郎社長、東京都光沢化工紙協同組合理事長(通算11期目)及び全日本光沢化工紙協同組合連合会会長(通算8期目)に復帰する。
 5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(20年連続4回目)
平成十一年  5月工藤久敏副社長、東京都光沢化工紙協同組合青年部青光会副会長に推される。
平成十三年  4月工藤久敏副社長、印刷産業青年連絡協議会発起人として常任役員に推される。
 11月荒川消防署長より防災感謝状を受ける。
平成十四年  10月現社長、工藤久敏が三代目社長に就任、工藤久一郎は会長に就任。
 11月全自動コンピュータ制御無溶剤ラミネーター1台更新設置。
 12月フィルムメーカーとの技術提携により、ハーフマットPPフィルムを開発し販売を開始する。
平成十五年  3月工藤久一郎会長、東京消防庁より消防総監感謝状を受ける。
 4月工藤久敏社長、印刷産業青年連絡協議会副会長に推される。
 5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(25年連続5回目)
平成十六年  3月会社創立90周年を迎える。
 10月東レ株式会社との技術提携により、高強度プレコートフィルム(VLタイプ)を開発し自社製品を全て切り替える。
平成十七年  4月工藤久一郎会長、春の叙勲において、旭日双光章を受章する。
 4月工藤久敏社長、印刷産業青年連絡協議会マスターズ倶楽部発起人となり副会長に推される。
 5月次世代光沢加工機である無溶剤UVラミコート(LC)機1台増設。
 7月荒川消防署長より防災感謝状を受ける。
 11月滝野川消防署長より防災感謝状を受ける。
 12月工藤久一郎会長、荒川区より功労者賞を受ける。
平成十八年  11月東京消防庁より予防部長感謝状を受ける。
平成十九年  8月全自動コンピュータ制御無溶剤ラミネーター1台更新設置。
平成二十年  5月小石川税務署長より優良法人として表敬状を受ける。(30年連続6回目)
 10月設備改善及び地球環境保護の観点から荒川・田端両工場に新型コンピューター制御ガスボイラーを更新設置。
 12月フランス・パリで行われた日本のデザイナー6名と全青連のコラボレーションによる展示会「Kansei−japan Design Exhibition」の出品作品の表面加工を担当する。
平成二十一年  1月東京商工会議所40年永年会員として感謝状を受ける。
 3月東商センターで行われた印刷産業青年連絡協議会見本市に弊社ブースを出展する。
平成二十二年  1月ニューヨーク国際ギフトフェアに於いて全印工連ブースに弊社製作の偏光フィルム加工品を協力展示する。 
 2月印刷関連青年部5団体主催によるPrintNext2010の企業団体交流ブースに弊社ブースを出展する。
 5月日本サッカー協会ワールドカップ誘致ブック表紙作成を担当する。
平成二十三年  4月東レ株式会社との技術提携により、高接着プレコートフィルム(XLタイプ)を開発し自社製品を全て切り替える。
 4月工藤久敏社長、印刷産業青年連絡協議会マスターズ倶楽部会長に推される。
 11月荒川消防署長より防災感謝状を受ける。
 12月工藤久一郎会長が退任し相談役に就任。
平成二十四年  2月全自動コンピュータ制御無溶剤ラミネーター1台更新設置。
 7月荒川消防所長より防災感謝状を受ける。
 11月滝野川・荒川両消防署長より防災感謝状を受ける。 
平成二十五年  2月全自動UVシルクスクリーン印刷機1台設置。
 5月半自動シルクスクリーン印刷機1台増設。
 8月工藤久一郎相談役、病により没す。
 11月東京消防庁より予防部長感謝状を受ける。 
平成二十六年  3月創立100周年を迎える。
 5月工藤久敏社長、荒川災害予防協会理事に推される。
 5月工藤久敏社長、巣鴨信用金庫スガモクラブ本店支部長に推される。
 7月工藤久敏社長、荒川消防懇話会常任理事に推される。 
平成二十八年  2月工藤久敏社長、東京商工会議所文京支部評議員に推される。
 11月工藤久敏社長、東京商工会議所文京支部評議員に再任される。
平成二十九年  1月工藤久敏社長、小石川法人会 支部役員に推される。
 5月東レ株式会社との技術提携により、高接着プレコートフィルム(CLタイプ)を開発し使用開始する。
平成三十年  11月小石川法人会より感謝状を受ける。
 11月滝野川消防署長より防災感謝状を受ける。 
平成三十一年
(令和元年)
 1月東京商工会議所50年永年会員として感謝状を受ける。
 6月工藤久敏社長、小石川法人会理事に推される。
 9月日本初のライトリキッドメタル加工機(シルクスクリーンを用いた箔押し機)を新規設置。 
 11月工藤久敏社長、東京商工会議所文京支部評議員に再任される。
令和二年  11月東京消防庁より予防部長感謝状を受ける。
令和三年  6月工藤久敏社長、小石川法人会理事に再任される。
 
       


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